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御嶽山 3067m   アップ:2022.2.16
「たしかにこのヴォリュームのある山は、それだけで一王国を形成している。一個の山として、これだけ図体の大きい存在も稀である。」 
 *深田久弥の『日本百名山』からの引用。


ご承知のように、御嶽山は2014年9月に大噴火があり、頂上付近にいた多数の登山者が犠牲になりました。
私が御嶽山に登ったのは1992年の8月で、王滝登山口からの往復。以下の写真は当時のものです。
よって、大噴火のために、山頂付近の様子は、現在と異なっていると思われます。

△ 駐車場のある田の原の王滝登山口です。ここで、すでに七合目。御嶽山は山頂付近が雲に覆われ、晴れることはありませんでした。 
 右は中腹の遙拝所。白装束の信者が目立ちました。

△ 登山途中から見下ろした王滝登山口。丸い山は三笠山。 右は山頂付近の絵地図で、詳しい。

△ 当時の山頂です。霧や霧雨のなかの登山です。

△ 山頂付近。信仰の山は、「何かな?」と思うものが建っています。 右は山頂にある御嶽神社。

△ 白装束姿は、御嶽講の信者たちでしょうか。 右は王滝頂上付近の噴気孔。2014年の大噴火は、ここだったのかしらん?
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▽ 1990年代の1月、信州野麦峠スキー場から遠望した御嶽山です。深田久弥が語るように、確かに図体が大きい山。

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御岳山の王滝登山口を開いたのが普寛上人(行者)。普寛の生地の秩父市落合(旧大滝村落合)には普寛神社が建ち、末裔の木村普侯さんによって上人の偉業が護り続けられています。
作家の伊佐九三四郎先生とともに、普寛神社の木村さんを訪ねたことがあります。俳優の寺田農にそっくりの方でした。
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【普寛行者】 *引用:ウィキペディア
普寛行者(ふかんぎょうじゃ)は、1731(享保16)年に武蔵国秩父郡大滝村落合で生まれ(本名が本明院普寛)、青年期に江戸へ出て剣術を学び、酒井雅楽頭家に仕えたと伝えられている。
1764(明和元)年に三峯神社に入門した本山派の修験者となった。1792(寛政4)年5月に江戸などの信者を引き連れて開山のために旅立ち、6月8日から山に入り各地で御座(おざ)を行いながら6月10日に登拝し王滝口を開いた。
その後江戸方面での御嶽講を組織し御嶽信仰を普及させた。1794(寛政6)年には上州の武尊山、1795(寛政7)年には八海山の開山を行い霊山の開山活動を続けた後、1801(享和元年)9月、巡錫中に武州本庄宿で病に倒れた
*普寛行者の辞世の句・・ なきがらは いつくの里に埋むとも 心御嶽に 有明の月
 王滝口3合目の清滝上の花戸には普寛行者の墓塔がある。1850(嘉永3)年に上野東叡山日光御門主から菩薩号が授与された。1890(明治23)年に王滝村で普寛行者百年祭が開催され記念碑が建立された。
普寛行者の直弟子として広山行者、泰賢行者、順明行者などがいて、その後次々に有力な行者が現れて御嶽講が広まった。